両親への想い
■朝 起きて、週末お泊りの孫たちと合掌
お仏壇の前で、お線香あげて、手を合わせて孫たちと一緒に朝の挨拶。
私はいつもと変わらず『今日もありがとうね。みんな元気だよ』と心の中で声を掛ける。
孫たちは、優しかった父が大好きでおじいちゃん子たちだった。(ひぃじいちゃんを『おじいちゃん』と呼び、本来のおじいちゃんは『じぃじ』)
母が最後の入院中にも何度もお見舞いに行って、抱き着いたりお菓子もらったり・・・『元気になってね』は叶わなかったけどね・・・。
2人の葬儀は、お通夜も告別式も、骨上げも・・・就学前の幼子だったけど受け止めてました。泣いてたもんねぇ・・・『おじいちゃん、Xmasプレゼント買いに行こうって言ってたのに』って・・・
今では、孫たちの脳内では、父や母は晴れた日は雲の上、夜はお月さんになって見てくれているらしい。
突発的に涙が出て 胸がキューっとなることがある。
街を通っても家の中でも、父や母の軌跡はあちこちにあるものね。
そう、時々急にくるんだよね、こんな想い・・・普段は、胸深くに仕舞っている父や母への色々な想いにまで辿り着かないようにしてるんだ。キューってなるから。
深い想いにまで気持ちが達してしまうと・・・ダメなんだ。そこから気持ちをあげるのがナンギになるから。悲しみというか辛さの淵に浸りこんでしまう。
父や母もそんな想いを抱きながら生きてたんだろうなぁ、なんともないように生活していたけど。外側からはわからないものね、今、自分に置き換えてみてやっとわかってきたような・・・60過ぎてやっとだよ。
死ぬまで生きていかなくちゃいけないから、
深い深い想いを忘れてしまうわけではないけど、ソコに行きっぱなしになってしまわないように 無意識を装いながら意識的に踏みとどめている。
仕事や、孫たちと関わる時間は その間そこに縛られるので、深い淵に近づくこともなく、辛い時間をコロリと忘れられる時間。
『うまく忘れることができるから生きていけるのです。』と寂聴さん言ってましたね。
忘れている時間が増えてもうしろめたさを感じることはないんだよね、遺った者たちも死ぬまで生きていくんだもの。笑ったり楽しんだりして生きていかなくちゃ。
『この世に生まれた以上、愛する人に死に別れなければならない運命を持っているということを、私達は覚悟しなければなりません。』との寂聴さんの言葉。両親を失ってからズシンと響く言葉・・・。